2009/10/08

「 亀井勝一郎『読書に関する七つの意見』。読書指南書としていまも欠かせない有名な1冊。」そのうち読みたい。その七つとは、
①読書は「自分の中の語り部」に気がつくということ、②書物の洪水のなかで困っているときは「思想の源泉」になるべきものを見いだすこと、③そのうえで「自分の原典」を発見すること、④読書こそ人間にとって最も純粋な時間を提供するものだろうということ、⑤読書は「感覚の訓練」であって「人生の批評」でありうべきこと、⑥読書には必ず「害」もつきまとうこと、⑦すべからく読書人は「老いたファウスト」に向かうのであろうこと
『書物の達人』池谷伊佐夫 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇
最近、小説を読んでない。本当に好きな本は、じっくり読めるときまでとってあるし。うーん、何読もう。あ、読む暇なかった。

2009/10/06

思考方法をアップデートするために、なにかしら自分にあった方法を考えないといけないなぁ。
進行中の作業や発想に、それをさらに進めるうえでの発想モデルや思考モデルが自分には“ない”ことに気がつく。これは自分の発想力や企画力や思考力に展望性や可塑性がないということだから、がっかりしてしまうこともある。しかし、がっかりしているのではまずい。なぜなら、自分に発想モデルや思考モデルがないということは、いいかえれば、ここが肝心なのだが、そこに「欠けたモデル」があったことに気がつけばいいということなのだ。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1304.html

2009/10/05

MITの鉄道模型クラブTMRC(ティーマーク)。
「ここには列車は10ポンドぶんしかないが、歴史のほうは50ポンドぶんもある」。
真夜中になると、ぞくぞくとクラブに人がおしよせてくる。そして、リレーの接続を変更し、列車がトンネルに入ったまま出てこないようにして、消え失せたような錯覚をあたえるとか、レールや部屋全体から妙な音が出るようにするといった仕掛けをつくって、仲間を面白がらせようとする(こうしたことは「ハック」と呼ばれ、このことばはやがて大いにひろまることになる)。
フレッド・ハプグッド「マサチューセッツ工科大学」

2009/09/10

記憶と書物の話 1

博覧強記の者を前にすると、人はよく「あんたのアタマの中を覗いてみたいもんだ」と言いたがる。ぼくもときどき、そういうふうに言われることがある。この投げやりな称賛には、しかし記憶と再生とのつながりが見えていないように思われる。
 博覧はディレクトリーがよくできていることを、強記はそれをブラウンジングするしくみがよくできていることを言うのだろうが、実はもっと大事なことは、その博覧と強記との二つのあいだには、思いもよらない「つながり」があるということだ。
 ぼくは何かを憶えていたいとは思っていない。知っていることなど、できるだけ放出してしまいたいし、どちらかといえば耄碌に憧れてきた。けれどもあまりに何も憶えられないタチなので、その記憶と再生のしくみを工夫するしかなかっただけなのだ。そのうえで、さまざまな本を読むうちに、多くのことがつながっているだけなのだ。本は、ぼくの救世主だったのである。

書物を読むということは、そのなかのテクストを、テクストに書かれた内容を、その順に汲みとることではない。そんなことをしても、ぼくにはそれを再生することは不可能だ。小説はまだしも、それ以外のものを読むんだったら、この手の読み方にはかなり限界がある。そう思っていたら、中世の文人たちこそ、今日に蘇るべき読書法を開発しきっていた。
 中世、書物に接するということは、テクスト以前とテクスト以降との、テクスト内部とテクスト外部との、その両方を読むことだったのだ。たとえば12世紀の初めのサン・ヴィクトルのフーゴーは、若い学生たちが写本のページのレイアウトや装飾とともに書物を読むことを奨めた。リテラトゥーラ(書かれたもの)はメモリア(記憶)の図形配置だったのである。

索引用語や検索記号は今日の書物やパソコンのように、最初から書物の巻末やパソコンの別欄に表示されるものではなかった。アタマと書物の“中”に同時に記されるべきものだった。
 そのため、章や節に番号をふること、テクストをグリッドに分けること、重要な最初の文字を彩色すること、朱書きすること(rubricare)、文中にアーチや柱のしるしをつけること、そのほかさまざまな工夫が試された。ぼくはこれを本に書きこむマーキングとしてずいぶん時間をかけてエクササイズしてきたが、セビリアのイシドルスたちは、とっくにこれを「アルス・ノタタリア」にしていたのだった。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1314.html

2009/09/05

世界をつくる

若手作曲家の藤倉大さんの記事。
東京駅の騒音解決方法の提示——すべてのホームのチャイムを完全に計算された不協和音で構成する——から、作家の紹介をはさみ、日本人作曲家の管弦楽作品の優秀作に贈られるという、尾高賞作品「シークレットフォレスト」の試みを紹介する。

尾高賞受賞作品「シークレット・フォレスト(secret forest for ensemble)」。壇上に並んだ9人の弦楽合奏と、客席の四隅や中央に配置された木管、金管奏者8人がともに演奏する。映画の効果音に使う筒状のレインスティックの雨音と響き合い、森の中にいるような幻想的な空間がホールに広がった。
この曲で、藤倉はある実験をした。木管、金管奏者には、複数の楽譜があり、奏者がどれを演奏しても弦楽奏者との「計算されたハーモニー」が成り立つ。「未来の」東京駅ホームのように――。
藤倉は、作曲という作業を黒澤明の映画になぞらえる。エキストラ一人ひとりの動きまで完全に計算された「隠し砦の三悪人」のワンシーンのように、どこを切り取っても完璧な映像。

今度、CDを探して聴いてみよう。
で、はっと何でカラオケの映像があんなにスカスカした印象をうけるのかが分かった気がした。見えない部分にまで、その世界が広がっていると思えないんだろうな。

朝日新聞グローブ (GLOBE)|Breakthrough -- 突破する力 藤倉大
http://globe.asahi.com/breakthrough/090727/01_01.html

2009/09/04

テンプレリセット

ブログ始めてから、訳もわからずテンプレートを引っ張ってきてたからそろそろカスタマイズが限界に。
とりあえず、bloggerの基本テンプレートに戻して頑張ってみようと思います。
暇を作れたら、このテンプレからカスタマイズ勉強したいなぁ。WEB系の人の頭の作りがうらやましい…。コードとか覚えられんです。

2009/09/03

Thu, Sep 03


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