2009/09/10

記憶と書物の話 1

博覧強記の者を前にすると、人はよく「あんたのアタマの中を覗いてみたいもんだ」と言いたがる。ぼくもときどき、そういうふうに言われることがある。この投げやりな称賛には、しかし記憶と再生とのつながりが見えていないように思われる。
 博覧はディレクトリーがよくできていることを、強記はそれをブラウンジングするしくみがよくできていることを言うのだろうが、実はもっと大事なことは、その博覧と強記との二つのあいだには、思いもよらない「つながり」があるということだ。
 ぼくは何かを憶えていたいとは思っていない。知っていることなど、できるだけ放出してしまいたいし、どちらかといえば耄碌に憧れてきた。けれどもあまりに何も憶えられないタチなので、その記憶と再生のしくみを工夫するしかなかっただけなのだ。そのうえで、さまざまな本を読むうちに、多くのことがつながっているだけなのだ。本は、ぼくの救世主だったのである。

書物を読むということは、そのなかのテクストを、テクストに書かれた内容を、その順に汲みとることではない。そんなことをしても、ぼくにはそれを再生することは不可能だ。小説はまだしも、それ以外のものを読むんだったら、この手の読み方にはかなり限界がある。そう思っていたら、中世の文人たちこそ、今日に蘇るべき読書法を開発しきっていた。
 中世、書物に接するということは、テクスト以前とテクスト以降との、テクスト内部とテクスト外部との、その両方を読むことだったのだ。たとえば12世紀の初めのサン・ヴィクトルのフーゴーは、若い学生たちが写本のページのレイアウトや装飾とともに書物を読むことを奨めた。リテラトゥーラ(書かれたもの)はメモリア(記憶)の図形配置だったのである。

索引用語や検索記号は今日の書物やパソコンのように、最初から書物の巻末やパソコンの別欄に表示されるものではなかった。アタマと書物の“中”に同時に記されるべきものだった。
 そのため、章や節に番号をふること、テクストをグリッドに分けること、重要な最初の文字を彩色すること、朱書きすること(rubricare)、文中にアーチや柱のしるしをつけること、そのほかさまざまな工夫が試された。ぼくはこれを本に書きこむマーキングとしてずいぶん時間をかけてエクササイズしてきたが、セビリアのイシドルスたちは、とっくにこれを「アルス・ノタタリア」にしていたのだった。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1314.html

2009/09/05

世界をつくる

若手作曲家の藤倉大さんの記事。
東京駅の騒音解決方法の提示——すべてのホームのチャイムを完全に計算された不協和音で構成する——から、作家の紹介をはさみ、日本人作曲家の管弦楽作品の優秀作に贈られるという、尾高賞作品「シークレットフォレスト」の試みを紹介する。

尾高賞受賞作品「シークレット・フォレスト(secret forest for ensemble)」。壇上に並んだ9人の弦楽合奏と、客席の四隅や中央に配置された木管、金管奏者8人がともに演奏する。映画の効果音に使う筒状のレインスティックの雨音と響き合い、森の中にいるような幻想的な空間がホールに広がった。
この曲で、藤倉はある実験をした。木管、金管奏者には、複数の楽譜があり、奏者がどれを演奏しても弦楽奏者との「計算されたハーモニー」が成り立つ。「未来の」東京駅ホームのように――。
藤倉は、作曲という作業を黒澤明の映画になぞらえる。エキストラ一人ひとりの動きまで完全に計算された「隠し砦の三悪人」のワンシーンのように、どこを切り取っても完璧な映像。

今度、CDを探して聴いてみよう。
で、はっと何でカラオケの映像があんなにスカスカした印象をうけるのかが分かった気がした。見えない部分にまで、その世界が広がっていると思えないんだろうな。

朝日新聞グローブ (GLOBE)|Breakthrough -- 突破する力 藤倉大
http://globe.asahi.com/breakthrough/090727/01_01.html

2009/09/04

テンプレリセット

ブログ始めてから、訳もわからずテンプレートを引っ張ってきてたからそろそろカスタマイズが限界に。
とりあえず、bloggerの基本テンプレートに戻して頑張ってみようと思います。
暇を作れたら、このテンプレからカスタマイズ勉強したいなぁ。WEB系の人の頭の作りがうらやましい…。コードとか覚えられんです。

2009/09/03

Thu, Sep 03


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